ミスガイ・ベニシボリ・コンシボリガイ — 江戸の貝図譜に残るウミウシの古名
前回 (Sea Bunny・Blue Dragon・Pikachu) はウミウシのバズった愛称を取り上げた。ウサギにせよドラゴンにせよ、いずれも「動物に似ている」 という直感的な比喩で、洋の東西を問わずわかりやすい。
今回はそれと対照的に、英語の語彙ではほとんど追えない方角に振れた日本の古い和名 3 つを取り上げる。動物でもキャラクターでもなく、御殿のしつらえと宮廷の織物 から名付けられた、リンネ式分類より前の名前たちだ。平安の姫君が座っていた竹簾 (たけすだれ) や、染師が藍甕から引き上げた絞り染めの布。江戸〜明治の博物学者は、貝殻のなかにそうしたものを見ていた。
前提の語彙を 2 つだけ:
絞り (しぼり) — 布を糸で縛ったり折ったりして藍甕に沈め、縛った部分を白く抜く伝統染色。点や帯状の柄が暗い地に浮かぶ独特の表情になる。
御簾 (みす) — 御所や神社に下げられた細い竹のすだれ。横に走る竹の節と、絹糸で等間隔に綴じた縦のラインが特徴。
この 2 つを思い浮かべてもらえれば、これから出てくる 3 つの和名はすべて「その物そのもの」 を指していることが見えてくる。比喩ではなく、貝そのものを染め物や調度品の一種として分類している。
1. 御簾の貝 — ミスガイ
- 和名: ミスガイ (御簾貝) — 「御簾の貝」
- 英名: Brown-lined Paper Bubble
- 学名: Hydatina physis (Linnaeus, 1758)
丸みを帯びた半透明の殻に、細い茶色の横帯がきれいに巻いている。見比べるまでもなく、御簾の竹の節そのもの。英語名「paper bubble」 はあくまで素材 (薄い殻) に着目した実用的な命名だが、和名は 宮廷インテリアの一品目 をそのまま当てている。
分類学的には Aplustridae (ミスガイ科) に属する有殻異鰓類。薄い外殻を持ち、体が殻の中に完全には収まらない。「ウミウシ」と聞いて多くの人が想像する形とは少し違うが、広い意味でのウミウシ類のなかにきちんと位置づけられている。
2. 紅絞り — ベニシボリ と オオベニシボリ
- 和名: ベニシボリ (紅絞り)、オオベニシボリ
- 学名: Bullina lineata (J. E. Gray, 1825); Bullina nobilis Habe, 1950
Bullina lineata の殻はクリーム色の地に、薔薇色のらせん状の細線が走る。まさに、白絹に紅の絞り染めをかけたような色合い。小さな貝が一着の絞り染めの着物を身にまとっているようにも見える。オオベニシボリは同じパターンの大型版。
この名は古い。武蔵石寿が 1843 年に編纂した貝の図譜『目八譜 (もくはちふ)』 にはすでに「紅粉絞 (べにこしぼり)」 として本種が収録されている。つまり日本の博物家たちは、誰もスキューバマスクを付ける遥か昔 — 少なくとも 180 年前から — この貝を「絞り染めの布」として扱ってきた。後付けの洒落た命名ではなく、染料を毎日扱っている人にとって素直な見立てだったのだろう。
→ Bullina lineata | → Bullina nobilis
3. 紺絞り — コンシボリガイ
- 和名: コンシボリガイ (紺絞り貝) — 「紺色の絞り染めの貝」
- 学名: Micromelo guamensis (Quoy & Gaimard, 1825)
「紺」 は単なる青ではなく、藍甕で何度も染め重ねたあとの、それ以上は青くならない深い藍の色を指す。本種の殻はまさにその色合いで、藍染を間近で見ていた人でなければ出てこない命名だ。
この和名は 1914 年に平瀬與一郎が命名し、1928 年の『奄美大島産貝類目録』 にも「コンシボリ (平瀬)」 として記載されている。一方の学名のほうは長らく大西洋産の Micromelo undatus (Bruguière, 1792) のシノニムとされていたが、Feliciano et al. による 2021 年の分子系統学的な再検討で、Quoy & Gaimard が 1825 年にグアムから記載した M. guamensis が太平洋西部の独立種として復活した。学名のほうが二転三転する間も、和名は一貫して同じだった。
3 つの和名に共通すること
並べてみると、いくつかの特徴がはっきり見えてくる。
「〜のように見える」 ではなく 「〜そのもの」 として名付けている。 Sea bunny は比喩で、「これは あれ に 似ている」 という構文。一方ベニシボリは分類で、「これは絞り染めの一種」 という構文。like ではなく as。日本の博物学者は、貝を「布のように見える物体」 ではなく、「すでに柄の入った布の一種」 として扱っている。
参照先がきわめて具体的で、産業化以前の日常品。 「染料」 ではなく藍染で何度も重ねた紺色。「すだれ」 ではなく姫君が御簾の向こうに座っていた竹のすだれ。「染め物」 ではなく紅絞りという特定の技法。これらは生活そのものの語彙であって、現代のような工芸ブティックの名称ではない。1820 年に絞り模様の貝殻が浜辺に落ちていたら、染師の試し布が流れ着いたかと一瞬思っただろう。
とにかく古い。 ベニシボリは 1843 年に文献上で確認できる。コンシボリは 1914 年には印刷物にあり、口承ではもっと古かったはず。これらはどれも、現在ペアになっているリンネ式の学名より 前から存在していた呼び名だ。日本の博物学者たちは、西洋科学が属レベルの分類を確定する前から、すでにこれらの貝を文化的・物質的な語彙のなかに分類していた。
ささやかな結び
西洋の貝の命名にも当然、長く豊かな伝統がある。アリストテレスは 2000 年前にすでに sea hare を記述し、リンネが 1758 年に Systema Naturae でまとめあげる前から、17 世紀のオランダやイギリスの収集家たちが貝の図譜を編んでいた。ただし引き合いに出される語彙のラインナップが違う。西洋の貝の俗称は、天使 (Angel Wings)、異教の神 (Venus shells)、宗教的な役職 (Turk's Cap、Bishop's Mitre)、動物 (Paper Nautilus、Sea Hare) — そういった先のほうへ向いている。日本は織物の柄と御殿の調度のほうへ向いた。
同じ営み — 賢い人たちが貝を眺めて、何かしら手頃な参照語を引っ張り出してくる — であって、引き出してくる「棚」 が文化ごとに違う、というだけの話だ。次に名付けられるウミウシは、誰の生活のどんな物に似ていると言われるんだろう。50 年後の子どもが、いまの私たちには思いつきもしない日用品の名前を、どこかの新種に与えるかもしれない。
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