ICZN 8.1.2 条で止まっていた一冊を、国立国会図書館に納めた話 — Martynov & Korshunova (2025) と裸鰓目の再編
2025 年、ロシアのモスクワにある Neptune という小さな出版社が、一冊の本を出した。45 ページ、印刷部数 100 部、ISBN を持つ正規の書籍だが、流通はロシア国内に限られていた。著者はモスクワ大学のアレクサンダー・マルティノフと、ロシア科学アカデミーのタチアナ・コルシュノヴァ。後鰓類の分類学を 35 年以上続けてきたシニア研究者の二人だ。
タイトルは「北太平洋の隠された多様性が分類体系の再編を促す」。中身は重い。9 種の新種、十数の新属、3 つの新科、いくつかの旧科の復活、そして「裸鰓目」をふたつの目に分割するという、教科書レベルの再編まで含まれている。
世界中の海洋生物の学名を一元管理しているデータベース WoRMS (World Register of Marine Species) には、本書もしっかり登録されていた。ただしステータス欄に英文一行 — publication does not satisfy ICZN Art. 8.1.2 — という注記が添えられていた。国際動物命名規約 第 8.1.2 条 (新名を成立させる刊行物は、複数の同時入手可能な複製として広範に頒布されている必要がある、という条項) を満たしていない、つまり流通の問題だ、という意味である。新属・新種の登録は、その注記が外れるまでは保留状態だった。
著者の二人とは長年の友人だ。ロシア語でアレクサンダーの愛称は「サーシャ」、タチアナの愛称は「ターニャ」で、本人たちもそれで通っている。本記事でも以下、サーシャさん・ターニャさんと呼ばせてもらう。二人の 2025 年の別の論文 (Korshunova, Fletcher & Martynov, Zoological Journal of the Linnean Society) では、私への献名種 Hantazuia kimotoi も記載されている。
WoRMS の更新通知でこの本の存在を知ったのが 2025 年初頭。読んでみたかったが、見るかぎり、入手経路は著者からの直接発送以外になさそうだった。それでサーシャさんに連絡を取ったら、本当に 1 冊を送ってくれた。これには率直に驚いた。ご存じのとおり、いまロシアから日本へ物を送るのは、市民個人にとってけっして簡単な話ではない。郵便事情も国際送金もすっかり面倒になっている。それを承知の上で、サーシャさんは封筒を仕立てて、はるばる東京まで本を届けてくれた。
本のやり取りをしているうちに、ふと思った。第 8.1.2 条が求める「広範な頒布」の側に、自分の手元のこの 1 冊を加えることはできないだろうか。手元の本を、国立国会図書館 (NDL) に寄贈してみる、というのが、そのとき思いついた実験である。本記事はその記録だ。
なぜ流通が要件になるのか
学名は、誰がいつどの本で最初に発表したかが、後世まで追跡できなければ機能しない。最初の発表物が散逸してしまうと、学名そのものが宙に浮いてしまう。命名規約 第 8 条が「広範な頒布」を要件にしているのはそのためで、新種記載の刊行物には、ある種の公文書性が求められる。
商業学術誌や有名博物館の紀要であれば、この条件は自動で満たされる。世界中の主要図書館に納本され、書誌が立ち、半永久的に書架に並ぶからだ。詰まるのは、流通範囲が地理的に限られた小ロット刊行物。Martynov & Korshunova (2025) は、ISBN を取得した正規の書籍ではあるけれど、印刷部数 100 部、流通はほぼロシア国内だけ。これは「世界中で広く入手できる」とは言いがたい。
これは著者ら個人の問題でも、WoRMS が頑固なのでもない。地域刊行物や博物館の内部刊行物にも本格的な分類学的内容が載ることがあるが、中身では問題ないのに、流通要件で命名規約の入り口で止まる、ということが構造的に起きる。
「裸鰓目」が裂けた話
本書のいちばんの貢献は、おそらく目レベルの再編だ。
ドーリス類 — 背中に花のような鰓をひとつだけ持つ「いわゆるウミウシ」のグループ — を独立した目として扱おうという発想は、19 世紀末から提唱されていた。しかし慣例で、いつのまにか裸鰓目 Nudibranchia の中の亜目として畳まれて扱われるのが普通になっていた。
本書はそれを逆転させる。ドーリス類は、発生段階で鰓室を作って背中に円環状の鰓を並べる、という基本構造を持っている。これは、ミノウミウシやタテジマウミウシなどの非ドーリス系とは、根本的に体の作りが違う。両者を「同じ目の二つの亜目」と扱うのは無理がある — というのが、近年の分子系統と発生学の研究で繰り返し示されてきた結論だった。本書はそれを、命名規約に則った正式な目の復活宣言として固定する。ドーリス目 Order Doridida は目に再昇格、裸鰓目 Order Nudibranchia はドーリス類以外 (ミノウミウシ・タテジマウミウシ・スギノハウミウシなど) を含む目として縮小。
この再編は、教科書から市民科学プラットフォームの階層、そして「世界のウミウシ」のカテゴリ構造まで波及する。
国会図書館への寄贈
NDL は外国刊行物についても寄贈受入の枠組みを持っている。書誌が立ち、本が永続収蔵されれば、命名規約のいう「主要な公的図書館に保管された永続的な記録」をひとつ、満たすことになる。Art. 8.1.2 の注記がそれだけで外れるかは別として、少なくとも材料はひとつ加わる。
必要なのは寄贈申込書、書誌情報、そして実物だけだった。手続きを進めると、本書は受け入れられ、以下の書誌レコードとして登録された。
- 書名: Hidden diversity of the North Pacific prompts reorganization of the taxonomic system
- 著者: Alexander Martynov, Tatiana Korshunova
- 発行: 2025 年、Neptune (モスクワ)
- 物理形態: 45 ページ、21 cm
- ISBN: 978-5-9905149-3-5
- NDL 書誌 ID: 034333142
- 請求記号: RA525-D6
- https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I034333142
請求記号 RA525 は無脊椎動物学の一区分。日本国の納本制度のもとに永続保存され、世界中の誰もが書名・ISBN・著者から検索で到達できる場所に、本書は収まったわけだ。
その後
寄贈手続きを進めてしばらく経ったある日、NDL の書誌検索でふと確認したら、レコードはもう公開されていた。NDL からの個別連絡は何もない。受け入れと書誌登録は、いつのまにか完了していた。
先日 WoRMS を確認すると、本書はすでに出典として登録されており、執筆時点で 81 件 の分類群がこれを根拠に整備されていた。
それでも、この経過は記録に残しておきたい。寄贈という地味な行為が結果としてどう作用したかは知りようがないにせよ、少なくともその作用の可能性を持つ場所に、サーシャさんから送ってもらった 1 冊が今も静かに収まっている、という事実は残る。
それからもう一つ、書いておきたいことがある。NDL に寄贈した旨をサーシャさんに知らせたら、彼はもう 1 冊、本書を送ってくれた。最初に送ってもらった 1 冊が東京の地下に収まったので、こちらに置く分が無くなったのを察したのだろう。最初の 1 冊は永続書庫の書架へ、サーシャさんが追加で送ってくれた 2 冊目はうちの本棚へ。役割を分けて、それぞれの場所に静かに収まっている。
「世界のウミウシ」への影響
うちのデータベースには、本書由来の新組み合わせを受けた種が、すでに 5 件、参考文献としてリンクされている。
- Longibranchus putnami (旧 Eubranchus putnami)
- Nella osyoro (旧 Cuthona osyoro、馬場 1940 記載)
- Nella soboli (旧 Cuthonella soboli)
- Nihonbranchus horii (旧 Eubranchus horii、馬場 1960 記載)
- Corruptobranchus malakhovi
馬場菊太郎博士が 1940 年・1960 年に記載した osyoro と horii が、85 年・65 年の時を経て新属に移されている、という事実そのものが、北太平洋分類学の連続性をよく示している。
ふだんは、助けてもらう側で
ウミウシ図鑑サイトを 11 年運営してきて、こういう局面に当たったのは今回が初めてだった。
ここで前置きしておきたいのは、私の立場のことだ。私は大学にも研究機関にも所属していない。フリーで読める論文以外、購読型の雑誌や入手困難な原記載へのアクセス手段をほとんど持たない、独立した個人として「世界のウミウシ」を運営している。だからふだんの私は、この記事とは逆に「助けてもらう側」のほうにいる。研究機関の友人や知人、海外の同業者が、自分の手元にある PDF を共有してくれたり、私の問い合わせに大学の中から答えてくれたりして、それで作業が成り立っている。サーシャさんが郵便事情の難しい状況の中、1 冊を送ってくれたこと自体、そういう善意のチェーンの一つだ。
今回はたまたま、自分のほうが何かを返せる側に立つ機会があった。新刊を 1 冊抱えて図書館に直接寄贈し、それが結果として正式な分類記録に組み込まれていく経過をリアルタイムで見たのは、これが最初である。動き出す前から成功すると分かっていた話ではない。
WoRMS、iNaturalist、GBIF、そしてうちの「世界のウミウシ」のような市民カタログ — これらが流す名前のチェーンの一番上流に、紙の本がある。サーシャさんとターニャさんが 2025 年にモスクワで 100 部刷ったその一冊が、サーシャさんの手元から私の机を経由して、いま東京・永田町、国立国会図書館の永続書庫に静かに収まっている。それで十分だと思っている。
地味な仕事だが、楽しい。
参考文献
- Martynov, A. & Korshunova, T. (2025). Hidden diversity of the North Pacific prompts reorganization of the taxonomic system. Moscow: Neptune. 45 pp. ISBN 978-5-9905149-3-5.
- 国立国会図書館 書誌レコード ID 034333142. https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I034333142
- WoRMS Source 510623. https://www.marinespecies.org/aphia.php?p=sourcedetails&id=510623
- ICZN. (1999). International Code of Zoological Nomenclature. 4th ed.
- Korshunova, T., Fletcher, K. & Martynov, A. (2025). The endless forms are the most differentiated. Zoological Journal of the Linnean Society 204(4): zlaf057. (Hantazuia kimotoi 原記載)
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